日本カトリック教団の「戦争の反省」の欺瞞

<これでは神の僕ではなく白人の僕ではないか>

 

【月曜評論bP281号 平成8年5月15日】

酒井信彦(東京大学教授)

 

【はじめに】

情報産業というと、現在ではマスコミを考えるのが普通であろうが、より広く情報産業を定義すれば、人間に情報を注入する事を使命とする産業と言うことになる。とすれば、教育は明らかに情報産業であるし、更に歴史的に最も古くから存在する情報産業と言えば、それは宗教である。つまり現在の日本においても、日本人の精神に関わる産業=情報産業には、マスコミ・教育そして宗教がある。現在の日本人の精神的混迷は、情報産業の責任が多大であるが、それにはマスコミ・教育と共に宗教があることは、忘れられがちである。

 では精神的混迷の極みであり典型である歴史問題、すなわち「歴史の反省」問題において、日本の宗教界は如何に発言しているだろうか。仏教では浄土真宗、キリスト教ではプロテスタント系の活発さは有名だが、以下において比較的知られていないカトリックの動向について、私の考えるところを述べてみたい。

 

【まるで朝日投書欄の戦争感】

 私が最近入手した文献に、『平和への決議―戦後50年にあたって―』なるものがある。

これは平成7年(1995)2月25日の日付で、日本カトリック司教団から信徒・司祭・修道者に宛てて出された教書である。従って私的な文献ではなく、日本のカトリック教団の公式見解であって、カトリック中央協議会が発行主体である。B6判々型の15ページに過ぎない小冊子であるが、日本のカトリック教団の戦争及び歴史に対する考え方を知るためには、根幹的な文献であると言える。

では次にその内容を紹介しよう。前後に、前文と末文があり、本体は3つの部分で構成されている。それは「1、いのちの尊さと戦争」「2、明日を生きるために過去を振り返る」「3、平和実現に向かって」である。すなわち、1で戦争について定義し、2で歴史の反省について述べ、3で今後の指針を語る、という構造になっている。

 戦争の定義については、以下のような説明が列記される。@戦争は、神の創造のわざとたまものの破壊です。A戦争は、人間のいのちの尊さを否定する行為です。B戦争は、家族のかなしみをつくりだします。C戦争は、十字架の愛を踏みにじるものです。D戦争は、愛のおきてに背く行為です。E戦争に積極的に加担する者は、永遠のいのちへの道を閉ざします。

 一見して分かるように、極めて観念的・一面的な戦争完全否定主義である。このような戦争感は、朝日の投書欄に利口ぶった中高生が自慢げに展開する戦争観に、酷似している。しかしちょっと考えてみれば分かるように、人類の歴史は戦争の歴史にほかならない。人類は戦争の必要があるからこそ戦争をしてきたのである。単なる娯楽として戦争をしてきたのではない。

 そもそもキリスト教の歴史が、戦争の歴史ではないのか。キリスト教徒が戦争が嫌いだとは、とても考えられない。キリスト教徒同志の戦争はさておくとしても、例えばヨーロッパ中世における十字軍の活動は、キリスト教徒がイスラム教徒に対して起こした大規模な戦争である。十字軍の活動は失敗に終わってしまったが、一方イベリア半島においては、「レコンキスタ」と言うキリスト教回復運動を推進して、これには成功した。レコンキスタすなわち再征服であるから、これも戦争そのものである。「日本カトリック司教団は、レコンキスタを否定するのかしないのか」と問われれば、決して否定しないだろう。厳しい戦争否定主義を振り回してみても、結局、御都合主義に堕しているだけなのである。

 

【日本の戦争責任についての告白】

次の歴史の反省の部分が、本書の中核をなしている。第1部は先に見たように、観念的な戦争観の羅列であり、第3部は第2部の歴史認識の上に立った今後の方針だからである。第2部はまた2つの部分で構成されている。@日本人としての責任、A教会共同体としての責任、である。@で注目されるのは、本書の前提として、昭和61年のアジア司教協議会連盟総会での白柳誠一大司教の「日本の戦争責任についての告白」が存在したことである。それはアジア・太平洋地域の2000万を越える死者に責任を感じ反省する、というものであった。本書ではそれを承けて、次のように述べるに至っている。少し長くなるが、大事な部分なので以下に引用する。

「確かに日本軍は、朝鮮半島で、中国で、フィリピンで、その他のさまざまな地域で人々の生活を踏みにじり、長い歳月をかけてつくりあげ、伝えられてきたすばらしい伝統、文化を破壊してしまいました。人々の人間としての尊厳を無視し、その残虐な破壊行為によって、武器を持たない、女性や子どもを含めた、無数の民間人を殺害したのです。わたしたちのごく身近なところには、強制的に朝鮮半島から連行されてきた在日韓国・朝鮮人や元『従軍慰安婦』たちがいます。今もなお怒りと悲しみの叫びをあげているこのかたがたは、第2次世界大戦において日本が加害者であったことをあかす生き証人であります。この事実を率直に認めて謝罪し、今なおアジアの人々に負わされている傷を償っていく責任があります。そしてその責任は新しい世代の日本人にも引き継がれていかなければならないものであることも、ここで新たに強調したいと思います。」

 

【「カトリック教徒」としての反省皆無】

 第2部のAは「教会共同体としての責任」と銘打たれているが、これは日本のカトリック教会の責任表明である。しかしその半分は、「戦前・戦中、日本のカトリック教会は、周りから外国の宗教として冷たい目で見られ、弾圧と迫害を受け、軍部から戦争に協力するよう圧力をかけられており、自由に教会活動を展開することができませんでした。」といった言い訳となっているのが重要な点である。

 そもそも「日本カトリック教徒」という概念は、2つの属性からなっている。言うまでもなく日本人という属性とカトリック教徒という属性である。したがって、第2次大戦という巨大戦争を考える場合、「日本人としての反省」とともに、「カトリック教徒」としての反省がなければならない。しかしここにあるのは、日本人としての反省と日本カトリック教徒の反省があるばかりで、しかも後者は言い訳付きである。第2次大戦は大東亜戦争だけでなく、ヨーロッパでも戦争が行われた。そしてこの戦争において、カトリック教会はファシスト勢力と決して敵対的ではなかったのである。

 

【西洋人の世界侵略とカトリック】

 実は過去500年に渡って、カトリック教徒としての歴史の反省を、心の底から真剣に行えば、大東亜戦争の世界史的意義は、自ずから明確に理解できるはずである。日本のカトリック教会は来年「日本26聖人殉教400年」行事を計画し、またローマ法王庁に殉教者188人の列福申請を行ったという。このように自己の被害者としての歴史には極めて敏感だが、加害者としての歴史の発掘には全く不熱心である。しかしその当時、アメリカ大陸ではアズテカ文明・インカ文明という固有文明が徹底的に破壊され、モンゴロイドの原住民が、むごたらしく殺戮されていった。そしてヨーロッパ人の世界侵略に当たって、キリスト教が極めて偉大な貢献をしたのは、紛れもない事実である。それはいわゆる「大航海時代」だけではない。近代のフランスのインドシナに対する侵略・支配において、カトリック教会は中核的役割を演じた。

 このような欧米白人による世界支配体制を基本的に覆したのが、言うまでもなく大東亜戦争であった。大東亜戦争の世界的意義は、まさにここにある。世界史の大変革すなわち真の革命である。戦争であるから犠牲者はでたが、犠牲なくして変革などありえない。しかも客観的に見て、極めて効率的な変革であった。それは大東亜戦争後のアジアの状況を振り返ればよく分かる。朝鮮戦争・ベトナム戦争・中共の文革・カンボジア大虐殺などで、厖大な人命が犠牲になったにもかかわらず、歴史の進歩には殆ど役立っていないではないか。

 

【カトリック信仰は支配者の武器】

大東亜戦争によって世界史の一大変革は成し遂げられたが、しかし世界の現状はまだ解決すべき問題が山積している。それは本書第3部で、日本カトリック司教団が以下のように指摘する通りであろう。「第二次世界大戦終結から50年たった今、国の内も外も、平和からはほど遠い状況にあります。(中略)国の外では、植民地主義や社会主義体制の後遺症が深刻に残り、富の不公平な分配により南北問題は先鋭化し、民族主義的な紛争が各地に勃発し、経済摩擦や麻薬売買等による国際間の緊張はおさまる気配がありません。」

 では現在の世界で、植民地主義の後遺症どころか、植民地主義そのものが最も温存されているのは一体何処なのか。それは明らかに中南米地域である。中南米地域では、この500年間原住民は虐げられ続けてきた。そして今も差別と貧困に喘いでいる。支配者の最強の武器となったのは、外ならぬカトリック信仰であった。精神を支配してしまうのが、最も確実な支配方法だからである。繰り返して言うが、これは過去の問題ではなく現在只今の問題である。

日本のカトリック教徒が、この明白な不正義に気が付かないとしたら、それは彼らが神の僕というよりも、白人の精神的な僕だからであろう。つまり頭が白人化されているのである。日本のカトリック教徒が「日本人としての反省」と言うとき、自分たちは日本人の中に含まれていないのである。だから気軽に「日本人としての反省」を口に出来るのだ。では白人化された頭で真剣に反省するかと言えば、それもしない。だからカトリックの歴史的不正義どころか、現実的不正義に対しても、目を閉ざし口を閉ざすのだ。

 

 

 

日本カトリック教団の『戦争の反省』の欺瞞

<精神の退廃としての偽善の見事な典型>

 

【月曜評論bP290号 平成8年8月15日】

                    酒井信彦(東京大学教授)

 

私は本紙1281(5月15日)号で、「日本カトリック教団の『戦争の反省』の欺瞞」と題して、日本カトリック教団の戦後50年を期した歴史の反省問題を取り上げた。それは昨年2月25日付けで出された『平和への決意』と題した司教団の教書の内容を紹介し、それに基本的な疑問点にもとづいて、総体的に批判を加えたものである。ただし私は従来から日本のキリスト教界の動向に詳しい訳ではなく、この教書の存在も出てから1年以上たってから知った位である。従って他に適任者もおられると思うが、前稿執筆後、カトリック教団の活動を示す基本資料である『カトリック新聞』を見る機会があったので、主として今年前半期に於けるカトリック教団の歴史問題に係わる動向を追って、前稿で取り上げた問題点をより具体的に検討し、また偏向に陥ってしまう根本原因について考えることとしたい。それは現在の日本が抱える最大の不幸かつ諸悪の根源、精神の退廃としての偽善主義の見事な典型であるからである。

 

【教団の慰安婦理解の程度】

 さて『カトリック新聞』は、司教団に直属するカトリック新聞社が発行する週刊新聞であり、普通の新聞の紙型で通常4ページである。中を覗いて見ると、一見してその内容のひどさに驚く。歴史問題は勿論のこと、社会的な殆どの問題について、左翼の主張や朝日新聞の報道振りそのまま、あるいはその上を行くと言ってよい。それらを一々紹介していられないから、歴史問題、そのなかでも例の慰安婦問題と、日韓歴史認識共通化問題について、以下にその大要を説明することにしよう。

 平成7年12月17日付け第3360号の1面トップの記事によると、12月4日ソウルで、慰安婦問題に関して韓国の修道女1700人がデモ行進し、韓国の女子修道会総長・管区長会として当時の村山首相に、正式に謝罪すること、公的補償をすること、日本の教科書に記述すること、の3項目要求した。同日日本の女子修道会総長・管区長会も村山首相に、「韓国の女子修道会のメッセージを全面的に支持する」と書簡を送ったという。平成8年になると、1月28日号から実に延々と5回にわたって、「積み残された『戦後処理』――元『従軍慰安婦』問題は、今――」と題するキャンペーン記事が連載された。その1・2回は、イ・ヨンス(李容洙)という68才になる韓国のカトリック信者が、千葉県四街道市立西中学校で2年生80人を前に講演し、「感動」した中学生が次々と日本を呪詛・弾劾する発言をしたというもので、洗脳教育の成果を誇示していた。

 この連載の初回に慰安婦についての解説があり、カトリック教団の慰安婦理解の程度を示しているから引用しておこう。題して「旧日本軍『強制慰安婦』」。「戦争中、朝鮮・中国・フィリピンなど10万人以上ともいわれる女性が、拉致(らち)甘言などで戦地に連れていかれ、旧日本軍の管理支配のもとで、強制的に「慰安婦」にさせられた。旧日本軍兵士の『強かん予防』『性病予防』という目的で駆り集められたが、その女性の多くは10代の少女で、毎日多くの兵士の相手をさせられ、日本の敗戦で解放された後も、その時の受けた傷で心身ともにボロボロになり、今なお後遺症に悩まされている。」

 そして4月28日号では、1面トップに「国連人権委、元『慰安婦』で決議、国家補償実現に向け土台」と見出しをつけられた記事がある。この記事のなかで注目されるのは、次の部分である。「国連人権委の会期中、日本カトリック正義と平和協議会の清水範子修道女(マリアの御心会)やジーン・ファロン修道女(メリーノル女子修道会)、東京教区正義と平和委員会の高嶋たつ江さん(フィリピン人元『従軍慰安婦』を支援する会事務局長)がジュネーブに飛び、被害者の尊厳と名誉回復の実現を求めて、熱心にロビー活動を行った。」すなわち、カトリック教団自身が、かの悪名高いクマラスワミ報告書が成立するに当たって、重要な加担者である訳である。このほかにも、『カトリック新聞』には、慰安婦関係の記事が実に多く出てくるが、枚挙に暇が無いので省くことにする。

 

【日韓歴史認識共通化問題】

 次に日韓歴史認識共通化問題は、平成8年2月25日号のトップ記事の見出しに、「福音を信じる者として、共通の歴史教材を、日韓の司教協会長が懇談」とあるものである。そのリードの部分は、「日韓両国の司教団代表による日韓歴史研究懇談会が2月16日、東京の日本カトリック会館で行われた。懇談会の席上、両国の司教協議会会長、イ・ムンヒ大司教と浜尾文郎司教は、両国の司教団は日韓共通の歴史認識を見いだす努力に着手する両国の若者たちが共通の歴史認識を持つための教材を将来作成する 両国のカトリック学校で使用できる共通の歴史教科書を作成する可能性も探るーことを合意した」とある。これはもともと韓国側からの呼びかけに日本側が答えたもので、この場で浜尾司教は、「日本司教団は1995年に教書『平和への決意』を発表し、その中で『信仰者として、戦争に向かった過去の歴史についての検証を真剣に行い、真実の認識を深め、悔い改めによる清めの恵みを願いながら、新たな決意のもとに世界平和の実現に挑戦したい』と決意を表明した。ご提案はまさに私たちの決意に沿うものだ。ぜひともいっしょに取り組みたい」と述べた。

 その後この問題は、韓国と日本でそれぞれ担当の司教が決まったが、現時点では具体的に動き出していないようである。しかし共通の歴史認識と言っても、それは韓国側の歴史認識を日本側が一方的に受容することを意味しているのは、余りにも明らかだろう。その証拠に、この記事のすぐ下にある「日韓の歴史観の違いを学ぶ講演会」という記事によると、平成8年2月4日、日本カトリック正義と平和協議会が主催し、東京の日本カトリク会館で開かれた講演会の講師は、例の筑波大学付属高校の高嶋伸欣教論である。

 

【教団トップの凄まじい偏向】

  以上見たように、カトリック新聞には、慰安婦問題そのほか、日本に係わる歴史問題において、凄まじい偏向が見られる。しかもそれは一部若手神父の暴走と言ったものでは決してないことが極めて重要な点である。枢機卿とか司教協議会会長といった、カトリック教団のトップが直接的に係わっているのである。

 白柳誠一枢機卿は、東京大司教区の大司教で、ローマ法王選挙権を有する枢機卿であるが、例のクワラスラミ報告書の内容が明らかになった時点で、2月25日の『カトリック新聞』において、次のように述べている。「国連人権小委員会の4年におよぶ研究と調査の結論であり、昨年の北京世界女性会議の決議も踏まえたこの報告書は、日本軍『慰安婦』制度は軍事における『性奴隷』であり、日本軍が行ったことは国際人道法に違反する戦争犯罪であるとはっきり認定しています。日本政府は法的責任をとることなしに道義的責任を果たすことはできません。一日も早く元日本軍強制『慰安婦』の方々の名誉と正義を回復し、国家による個人賠償を行うよう強く希望いたします。」そして白柳枢機卿は、「応じよ!国連勧告」と銘打った、日本政府にクワラスワミ報告を完璧に実施させようとする、100万人署名運動の呼びかけ人に名を連ねている。

 また日本と韓国のカトリック教団による、歴史の共通認識は、両国の司教協議会会長のトップ会談で合意したものであることを、忘れてはならない。浜尾文郎司教協議会会長は、横浜司教区の司教であり、ついでに言えば浜尾実元東宮侍従の実弟である。

 

【それにしても奇妙な慰安婦騒ぎ】

 それにしても現在の慰安婦問題騒ぎは、考えれば考えるほど奇妙である。その基本的虚構性は、本誌でもしばしば取り上げられている通りである。また現在具体的に進められている慰安婦への補償についても、余りにも疑問だらけである。第一名乗り出てきた人間が本物かどうか分からない。本物だとしても、現在の経済的窮乏や身体的障害が、半世紀も前の慰安婦の時代の産物だと考えること自体異常である。

 朝鮮には朝鮮戦争があったし、中共には文革を初めとしたこの世の地獄があった。先に引用した『カトリック新聞』も使っていた、慰安婦を論ずる時の決まり文句、「その時の受けた傷で心身ともにボロボロになり、今なお後遺症に悩まされている」と言う表現は実に欺瞞に満ちている。常識から考えても、心身ともにボロボロになった人が、今まで長生きしているのは変である。特に中共の農村のような、栄養状態も衛生状態も極度に劣悪な地域で長生きできるのは、心身ともに頑健である何よりの証拠ではないか。愚かな日本政府は200万円の見舞金の上に国費まで投入しようとしているが、元慰安婦の存在する国に於いて、彼女らばかりが生活困窮者ではない。元慰安婦という特権で莫大な収入を手に入れられるなら、他の一般困窮者に対して甚だしい差別ではないか。

 百歩と言うより千歩譲って、日本軍の慰安婦が人権侵害で、半世紀たっても謝罪と補償をしなければならないとしても、日本にだけそれを要求されるのは、全くおかしな話である。同様な行為を行ったあらゆる国に適用されなければならないはずである。勿論第二次大戦だけでなく、戦後のすべての戦争に適用すべきである。特にアジアにおいては朝鮮戦争やベトナム戦争など、戦争が絶えなかった。しかも直接関係者がまだまだ大量に存在しているのである。金持ちになった韓国などは、ベトナムに対してすぐにでも、心からの謝罪と手厚い補償を行うべきである。慰安婦すら人権侵害だとしたら、強姦はこれ以上もない人権侵害である。アメリカ軍による沖縄戦や進駐時代における強姦事件は、数限りなくあっただろう。それは基本的に公にされていないだけである。私が気づいたものでは上原栄子著『辻の華』戦後編上(時事通信社)に、沖縄戦において強姦を受けた事実が淡々と証言されている。これらの事例もすべて調査して謝罪と補償の対象にしなければならない。

 そうしないで日本の慰安婦だけを、謝罪と補償の対象にするというなら、それは日本だけを特別扱いしていることになる。まともな判断力があればだれにでも分かることだが、日本人だけが特別に性的に貧欲で、慰安婦に対して残忍だったなどということがあるはずがない。しかし『カトリック新聞』2月25日号、先の慰安婦キャンペーンの5回目の記事によれば、カトリック信者の武者小路公秀明治学院大学教授は、記者会見の席で、「旧日本軍による『強制慰安婦』問題は、旧ユーゴスラビアなど、紛争時における女性への性暴力の悪い前例となった」と語ったという。この世の真実を直視せずに、日本だけに性的人権侵害の罪をなすり付けようとしているのである。これは日本にたいする極度の差別以外のなにものでもない。しかしこの簡単極まりない理屈が理解されずに、かえって真実の名の元に巨大なウソが捏造されて大手を振るってまかり通り、日本人の名誉をことさらに傷つけようとしている。

 

【仕組まれた国際的謀略】

ではこの巨大なウソは、いかなる目的の元に、如何なる存在によって作り出されているのだろうか。そのことを考えるヒントは、実は「聖書」の言葉の中にあるのである。

国会図書館に行くとその出納カウンターの上に、何やら文字が書いてある。向かって右側に原語(ギリシャ文字)、左側に日本語訳である。文章は聖書のヨハネ福音書8章32節のイエス・キリストの言葉である。それは、現在の口語訳聖書では、「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」、全ての文語訳では「真理は汝らに自由を得さすべし」となる。

ただし国会図書館の日本語訳は、意図的に誤訳して「真理はわれらを自由にする」としている。国会図書館法の前文は、この言葉を引いて次のように言う。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」出来たのが昭和23年、勿論占領中である。キリストの言葉は確かに素晴らしい。しかし最も大切なポイントは、真理とされていることが、本当に真理なのかいなかである。だからこの言葉を裏返せば、「ウソはわれらを不自由にする」ということができる。つまり、「ウソはわれらを奴隷にする」のである。聖書を読み続けて来た人々だけでなく、素直で間抜けな日本人を除く「文明人」は、情報によって他人を支配できることを、骨の髄から知っている。

 戦後の日本人の意識は、基本的にウソによって支配されてきた。国会図書館法に言う真理とは占領軍にとっての真理、東京裁判の真理に外ならない。ただし占領中はともかく、日本が独立を回復し、東西対立の冷戦の下でその締め付けは緩んでいった。改めてその締め直しに転じたのが、今からちょうど14年前、昭和57年(1928年)の、第一次教科書事件であった。東京裁判史観の再建・再構築である。注意しなければならないのは、この時の騒動も明白なウソによって始まったことである。すなわち、教科書検定で、「侵略」を「進出」に書き直させたとのデマである。そしていったん作られたウソは、未だに強固に流布し定着している。この間問題を悪化させた最大の責任者は、結局のところ外部からの攻勢に不様に屈従していった政府自民党である。偏向歴史学者はそれ以前からいくらでもいたが、彼らの教科書は、検定によって修正されていたからである。

 以後14年の歴史問題を巡る歴史は、心ある人々の努力にも拘わらず、悪化する一方であり、とうとう今回の慰安婦問題の状況に至ってしまった。例のクマラスワミ報告書がゴマカシで作り上げられ、家庭内暴力に関する報告の付属文書として無理やり抱き合わされて、それが外されなかったことをもって、正式に承認されたかのようなウソが捏造されるという、見事な段取りになっている。日本人は国連の虚名に殊に弱いが、この国連人権委員会というのは、人権侵害超大国・中共の人権問題を取り上げることを、毎年拒否している実にデタラメな所なのである。一連の流れを虚心に眺めて見れば、これは最初から徹底して仕組まれた、国際的謀略以外のなにものでもないことが分かるだろう。

 

【ナチとカトリック教会】

では日本をウソによって支配しようとする者の手先として、現在日本を悪し様に非難し続けている日本人偽善者集団の精神構造を考えてみよう。その代表として適切なのは、本稿で論じてきた、日本カトリック教団の場合である。さてこのように日本の歴史の追求には異常なまでに厳しい日本のカトリック教団だがカトリックそのものの歴史については如何であろうか。

 それについて最近興味深い事実が起こった。それはローマ法王のドイツ訪問に関してである。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、6月21日から23日まで、ドイツを訪問した。東西ドイツ統一後、初めての訪問だった。そして朝日新聞6月24日夕刊の記事に、次の部分がある。「法王はドイツ訪問中のミサで、原稿にあった『ピウス12世(ナチス時代の法王)は多くの人々をナチスから救おうと努力した』などの数箇所を省いた。ピウス12世時代のバチカンがナチス政権と外交関係を保持したことから、カトリックの活動全体を真っ向から正当化できない法王の複雑な立場をうかがわせた」ただし朝日の記事の叙述は奥歯に物の挟まったようで、意味する所がよく分からない。そこで『カトリック新聞』を見てみると、同紙7月7日号には、ローマ法王のドイツ訪問の記事が出ていて、「23日には、ナチスに命懸けで抵抗した二人のドイツ人司祭、ベルンハルト・リヒテンベルグ神父とカール・ライスナー神父の列福式ミサをベルリンのオリンピック・スタジアムで司式した」とある。しかしミサにおいてスピーチの草稿を略したという重大な話は、全く出て来ない。

 ところが同じキリスト教の新聞でも、プロテスタント系の『キリスト新聞』7月6日号には詳しく出ていて、この間の事情が判明する。「ミサで教皇は、ナチの人種差別、反宗教的政策の受け入れを拒否して拘束され獄死した3人のドイツ人司祭と修道女1人を称賛した。ナチス時代のカトリック教会はユダヤ人大虐殺を黙視したとして、第二次大戦後ユダヤ人からの批判が高まっていたが、バチカンは黙視したのではなく、虐殺阻止に動いていたが、積極的な行動はかえって犠牲者を出すことになると懸念していた、と非難を否定している。今回の教皇のメッセージにもその趣旨を盛り込んだ箇所があったが、教皇はそこを読まなかったもの。教皇のドイツ訪問の目的の1つはこれら司祭の列福にあるが、ドイツ国内ではこの列福により当時の教会の姿勢に対する批判をかわそうとしているとの批判も出ていた」つまりドイツでの批判に直面して、法王はカトリックとしての自己弁護を諦めざるを得なかったのである。それにしても『カトリック新聞』が、歴史の反省に関する極めて重大な事実に、完黙を決め込んだことだけは間違いない。なおナチスとバチカンの友好的な関係については、ピーター・デ・ローザ著『教皇庁の闇の奥』(リボロポート)392ページ以下に詳しい。

 

【歴史の隠蔽画策する教団】

では歴史の反省が大好きな日本カトリック教団が、どうしてこれほどあからさまな歴史の隠蔽を画策するのだろうか。その理由は実に簡単で、自分にとって都合の悪いことだから、口を閉ざしたのである。前稿でも触れたが、「日本のカトリック教徒」と言う場合、二つの属性がある。日本人という属性とカトリック教徒という属性である。日本カトリック教徒の少なくともその指導部に見られる特性は、日本人としてのアイデンティティよりも、カトリック教徒としてのアイデンティティのほうが、遥かに強力に感じているという事実である。だからこそカトリックの汚点を隠そうとするのである。反対に日本人という自覚は乏しいか皆無だから、日本という存在に対しては、遠慮会釈なく糾弾に明け暮れることができる訳である。したがって、ここが歴史の反省問題を考えるための、最も重要なポイントだが、彼らの過去と現在の日本に対する批判は、一般に理解されているように、或いは当人たちが無邪気に信じ込んでいるように、日本人としての心からの反省から発している訳では全くない。外国人の感覚で、日本人を糾弾することに、絶大な精神的充実感を感得しているのである。

 すなわち日本カトリック教団は、口で言うことと実際にやっていることと、甚だしい懸隔がある。と言うよりも、全く逆だと言わなければならない。カトリックの人々は、二言目には愛だ正義だという。しかし日本の歴史に対する認識は、慰安婦問題の理解に典型的に表れているように、根本的に間違っている。日本に対する偏見に満ち満ち、一方的に罪をなすりつけようとしている。それこそが正義の反対の悪である。愛があるとすれば、それは自分にたいする自己愛であり、自分とその属するカトリック集団への愛であって、他者に対する愛ではない。また宗教的寛容と言われるものも、自己に対して寛容なのであって、他者たる日本人には過酷かつ無慈悲この上もない。これこそ完全倒錯というべきものだ。

 

【真理が我らを自由にする】

 以上、日本カトリック教団の人々の精神構造を分析してきた。ただし私は、カトリック教徒だけが間違っているなどといっている訳では決してない。カトリックの場合に、現代日本を覆い尽くす、精神の病としての偽善主義の素晴らしい典型が見られるからである。戦後の洗脳教育をまともに受容して、精神が奴隷化した日本人は、その魂が日本人ではなくなっているのである。いくら日本国籍を有した、血縁的にも間違いなく日本人だとしても、本物の日本人ではないのである。近時、慰安婦を「性奴隷」といよいよまがまがしい呼び方を流行らそうとしている人々は、自分自身が精神的奴隷なのである。

精神の奴隷の恐ろしいところは労働の奴隷と違って奴隷としての自覚がないことである。日本人でない人間にとって、日本人をいじめることほど楽しいことはない。それは歴史の問題を巡る、シナ人・朝鮮人の張り切り振り・熱狂振りを見れば、実によく分かる。しかも一応日本人としての要件を備えているのだから、日本人いじめを外見上、心からの反省に見せかけることができる。彼らは反省を装いつつ、日本民族の尊厳と名誉をズタズタ傷つけているのだ。偽善に酔いしれ、偽善に狂っていると言うしかない。

 かくして現在の日本において、偽善主義はますます隆盛を極めている。しかも歴史教科書を改悪することによって、偽善主義の後継者を更に大量に、拡大再生産しようとしている。この体制が完成すれば、日本人の魂は完全に死滅するだろう。しかしこれは先に見たように、基本的に洗脳、マインド・コントロールなのである。日本の偽善者たちは、統一原理信者やオウム信者のように、騙され切っているのである。マインド・コントロールなら、それを解くことができるはずである。中には自力で抜け出す人もあるが、それはあくまでも例外であろう。まず公教育による偽善主義のこれ以上の蔓延をくい止めねばならない。そして現在偽善主義に犯されている人々の魂を治癒する方式を確立しなければならない。それは結局、この世の真実を徹底して学ばせるほかないだろう。それこそ「真理が我らを自由にする」のであるから。